はなだ文筆館

クルツよりがむしゃら。

日記20190530

ピンチ・ピンチ・ピンチ。

人生のピンチ、その場のピンチ、終局を迎えるピンチ。 

 

私の大切なことは、美学的なこと、形而上にある、生をこれまで邁進させてきた何事か。

それを裏切らるなかれ。

 

この世は、私の得意な場所ではないが、この場所によって私が育てられたのも事実である。

 

偉人の経歴には、どいつもこいつも、こう書いてある。

「そんな時代は終わった、というのが凡人」

それは、文字ではなく、私とバイオグラフィーの間に浮かび上がる一つの解釈。

 

わたしは世が世なら敬虔な信徒となっていたであろう。

それがそうなったのは、私よりも偉大な存在の思し召しである、そう考えていただろう。

少し保守的で、変化を心のどこかで嫌っている。

 

 

しかし世の中とは、カネであった。

フラクタル

 

些末な日常の断片を取り出して写真を現像したり歌詞を書いたりすると、日常とノスタルジアを重ね合わせることに目がない現代人は、それらが自分たちがまさに今住まう世界であることに気がつかず、鑑賞の対象としての美を当てはめる。

写ルンですやチェキが一部の層で流行したり、ブームの兆しを感じた若いアーティストに「等身大」とか「リアルな」という冠をつけたりして、日常を異なる角度から再認識することが有り難がられている。

 

技術を悟らせない技術に美があるとすれば、アナログ的な日常の再認識は、技術の誇示である。日常という対象が同じなのに印象が異なるならば、その違いは認識の手段の違い、すなわち抽出手段の差だ。

 

そこにあったもの、そこにあるもの、私たちが新たな解釈の可能性を無意識的に閉ざしていたものーー美は、その再定義を体験する感覚にまで及んでいる。

 

質感には、敏感である。インターネット普及は、以前よりも格段に多くの視覚イメージを人々に提供し、我々の視覚的な経験は(深さは別にしても)かなり広くなっているだろうし、視覚イメージの経験は豊富なはずだ。聴覚についても同じことが言えるだろう。

 

現代的な美はなかなか普及しない。模倣のスタイルとして、アナログな雰囲気、ふるっぽさが前面に押し出されることはあっても、それは美の必然的な歴史的変遷の結果ではなく、人々にノスタルジックなものや日常的なものを再認識させる、明白な意図の下にある。

 

今目にする日常に潜んだ美は、その実体を持たない、表現の技術に対するものだ。表現の技術が持つ時代性に、我々はノスタルジーを感じているのだ。

 

ではあれば、ストーリーがひどく浅薄になること、下品であることは当然の帰結とも思える。作り手たちは、言外の意味や風刺、思想的背景を解釈されることを期待していない。彼らは自分の作り出す世界観の技術的側面に最も価値を置いているのだ。

 

 

さて、なぜトルストイの小説が長いのか。なぜ漫画は未だ文学研究の中心に据えられていないのか。

曖昧さと思われているものを全て、衒学的と決めつけてしまうのは、非常に愚かで、巨大な機会損失ということだ。

 

日記20190520

 

投稿は21日だが、中身は20日についてのことである。

 

引き続き、艱難辛苦。

夕方、アル・クーパー流しながらシャワーを浴びていたら、お湯を止めている間にブラインド・ベイビーのフィドルがあんまり素敵だったので、立ち直ってしまった。

 

というわけで、脱出。ふたたびシャバの空気を吸う。

 

 

読書記録をつけようかしら。

日記20190519

 

艱難辛苦。繰り返しは忘我的でないと、最も根源的な恐怖に辿り着いてしまう。

 

ひとつショッキングな夢を見ると、その後数日間、精神的に全く立ち行かなくなる。

私は恐怖を抱いているのか、不安を抱いているのか、はたまた、無限的なものに対する畏怖だろうか。

 

耐え忍ぶ期限がないと、苦は苦としてあり続ける。

 

世界の認識の仕方に、階層がある。

現象学的階層、物理的階層、わたしはこれに加えて、精神的階層が存在すると思う。

普段の、忘我的な時には、現象学的なものの見方のひとつによってわたしは物事をみている。

経験、技術、志向、あとは。

 

 

精神的階層にあるとき、艱難辛苦は増大する。この時ばかりは、なにもかも、現象学的な世界に過ぎない、というわけである。

 

 

すべきことをする、それは現象学的階層に戻るための手段である。

 

日記 20190513

 

最高気温22度、最低気温14度の予報。

少し湿った空気に、鳥の鳴く声が方々から聞こえてくる。空のほとんどは雲に覆われているが、ねずみ色ではなく、綿あめの白さ。

微かにくさいきれの時の匂いがするが、こんな穏やかな気象では僕の勘違いだろう。

 

朝の登校中に書く日記。

 

季節の植物の名前をもう少し知れば、さまざまな物が僕の景色の中で昇格して、より多様な世界を見せてくれそう。

 

 

五月の雷。

五月は五月晴れのイメージが強い。青い空と、陽光が反射してきらめく木々の葉。

たまに寒い日もあるけれど、仕舞い忘れていたジャケットを羽織って、なんとかやり過ごす。

雷は、そういう日々の中では明らかな異邦人である。

 

 

春の嵐を、僕はあまり好かない。桜の花びらも散ってしまうし、生暖かい風が吹き荒ぶのはあまり気持ちの良いものではない。

雨が一緒に降っていたら最悪だ。雨だけが真っ直ぐ降るならいいけど、風で横殴りになった雨は、体に張り付いて鬱陶しい。

 

 

家にいても、ゴロゴロと雷の音。

あんまり危ないところに落ちなければいいなあと思いながら、僕もごろごろ。

 

 

みんな、程よくお祭りをすればいいのだ。新元号も、憲法のことも、異常気象のことも。

良かれ悪かれ、僕らには、何かにつけて騒ぎたくかる潜在的な衝動があるし、とりあえず混ざってみて、いやならすぐ立ち去ればいいのだ。

お祭りから出て行く人を追いかけるような無粋な真似さえしなければ、そういう、流動的な社会ができる。

首を突っ込んだっていいじゃないか、しつこく追いかけるな。議論の起こるべきところには自然と人が集まるし、潮時になれば少しずつ散って行く。

あまり無為にしていると、秩序がなくなるかって、いや、僕らはそんなに忍耐強くないんだ元々。

がんばれる人間たちの秩序、がんばれない人間たちのカウンターカルチャー

 

雷は、突然やってくる。

突然落ちるけど、避雷針に向かってくることもある。

鮮烈な衝撃をもたらすには、一瞬の出来事のほうがいいかもしれない。

なんだったんだ、あれは、と呆けてしまうことが、人間から束の間であれ理性的判断を遠ざけて、まさに、お祭り的な、秩序でない集まりを生みだす。

 

 

僕らは避雷針を作ることはできるけど、まだ雷を落とさないようには、できないのだ。

 

典型的な人間

 

友人達数人と集まって、やっぱりぼくは将来のことを話す時に文学と音楽を添えるのだなあ、と気がついた。添えるというよりは、ほとんどメイン・ディッシュだけれども。

 

就職活動。

将来の経済的・社会的立場に不安を抱いた末に、ぼくはひとまずお金を稼ぐことの意義というか、生計を立てるというルーチンの切実さをもっとリアルに想像することを選んだ。

働く。誰かに利することをする。社会の一部であるという自覚を、より明確にする。

何が変わるか?ーーそこが一番の問題な気もする。

 

僕はとにかく、無知だ。世間のことも、お金のことも、人々のことも、そういった何かと何かをつなげているもののことはあまり知らない。音楽が人をつなげるなんていうけど、その理論はそれなりに正しい部分もあるが、分解すれば、音楽は交換じゃない。一人ひとりの没入が、同じ瞬間に起こっているだけだ。

なぜアマチュアの音楽家が舞台の上で緊張するか。共有されるという前提が、演奏者を音楽の海に没入させないのだ。

私たちが見ているーーそれは、ここは現実だよ、と知らせる無情な宣告だ。

音楽は没入だ。一度白けた観客は、ほとんどの場合戻ってこない。音楽が音になり、観客は聞いている自分に気がつく。

 

音楽に、または文学に携わるとは、まず関係性ではなく、没入に携わるということだと思う。

曲ごとに、物語ごとに、それぞれの世界の底まで潜り込む。

白けさせないことが、作品を延命する方法だ。

文学が音楽と違うのは、白けても白けても、鍛えていくうちに、自分の没入できる世界を意識的に増やしていけることだと思う。音楽よりももっと、理性的に鑑賞しているのも関係しているかもしれない。

 

それから、音楽も文学も、もとから共有するものではないと思う。僕は映画に関しては、さらに強くそう思う。感動を共有するなんて、ある意味贅沢というか、もったいないことなのだ。趣向が完全に一致するなんてありえない話だし(というかそれは、アイデンティティの危機だ)、良い作品だと思ったなら、それはあなたの体験通りの形をとどめておいて、無用の議論はしない方が余程幸福だと思う。

感動のままに任せよ、没入はそういうことだと思う。

 

こういった、閉鎖的な行動ばかりしてきたせいか、僕は無知である。他のことを知ろうとする好奇心にかける。それは理性的な「世のことをもっと知ろう」という行動ではなく、内から湧き出てくる、本物の好奇心のことだ。何かのためにではなく、ただ自分の好奇心を満たすために湧いてくる好奇心が、僕には薄い。

無関心なことを、たくさん知ろうとしている。

 

そして、こうした無関心のせいだろうか。はたまた、音楽とか文学とか、そういう「架空」の世界に浸りすぎてたせいか、僕は現実世界の想像力に乏しい。致命的に欠陥している。

物事の順序やしきたり、社会的規範(社会的な良心はそれなりに育まれてきたと自認しているけれど)を論理的な枠組みで捉えたがる。旧態依然としていないといえば聞こえが良いのだろうか。非合理なものに関心がない、議論するのも面倒だ、とか。

もちろんこういう輩は、現代社会に一定数いると思う。

 

 

僕は、永遠に感動していたい。そのために文学が、音楽が、映画がある。没入する。髪の毛のはねたてっぺんからつま先まで、心身をひたす。

好きな音楽を人と話すのは、感動の共有のためではないのだ。そこには、僕の身体の外側にはりつく、賞賛への渇望がある。感性を、美的感覚を、生得的な固有の能力を誇示したいのだ。

誇示するために必要ならば、何かを知ろうとする。これは確かだ。だが、もし地位と名誉と金銭を全て充足させてしまったら、僕に好奇心は残らないかもしれない。いくらでも誇示する手段があるから。

体の内からではない好奇心は、必要に応じて現れ、僕の体裁を整えるためにいい具合に働いたあと消えてしまう。労力だから。

好奇心が労力でなくなるためにはどうすればいいだろうか?

 

 

働く。

好奇心がないことをする。没入できないことをする。様々なもののつながりを考える。

働く上での想像力、関連を意識するチカラは、文学を読んだり音楽を聴くときのオマージュやパロディとは違う。それそのもので確立していたものが、偶然の出会いにより変質し、新たな価値を生み出す、といったものではない。

そこには期待と予定調和のつまらなさがある。

突然に開ける視界の美しさを感じない。感動がない。

 

ウィットとユーモア。

ギャグじゃ、なんだかつまらない世の中だよ。