はなだ文筆館

クルツよりがむしゃら。

雑録20191206

 

何も思いつきはしないけど記事を書くと、だいたい書き出しが「僕は最近ね・・・」とか「こないだ気がついたことなんだけども」となる。

あのねあのね、と何でも報告したがる子供のようだが、僕はそういう子供だったのだろうか。

とにかく、口を開けば自分のことばかりなのは、それなりに自意識の強い人間だから仕方がない。

 

 

 

ヒットチャートみたいなものは、いったい誰が参考にしているのか僕にはあんまり検討がつかないけれども、 ニューヨークタイムズのアルバム10選みたいなのを見たらなんだか面白かった。

昔なら背をむけていた、こういう数字を使った語り方を最近はうまく受容できている気がする。

大人になったから、というよりは、数字なんてただの数字なんだというのを昔よりも本来的な意味で理解できてきたからのような気がする。

 

 

最近はめっきり寒くなった。

前は寒い外をコートを着込んで歩くのが好きな気がしたんだけど、そう言えばここ数年あんまりビシッとしたかっこいいコートを持っていない気がする。あったかそうなやつはもっているけど、北風の中を颯爽と歩く自分を見せびらかしながら悦に浸れるような、等身がないと切れないような服をもっていない。

 

 

 

 

本当はゆっくり、毎日、小説を読みふけりシンセサイザーの研究をしたいのだが、そう言う時は忙しいことの裏返しの表象みたいになっている。

 

 

日記20191121

 

 普段、自分なりに考えたことを文にしてみると、どうも論理のつながりが悪かったり、言葉を誤って使っていたりして、自分には物事を的確に表現する能力が足りないのだと感じることがよくある。もちろん、日頃から多くの文章を書いていればそうした能力は自然に力がつくものだろうが、「書くために書く」という習慣づけができないので、ふと思いついた時にだけ、文書に残そうとパソコンやスマホに打ち込んだり、ノートにメモしたりする。

 そうして書いた内容は大抵その瞬間に考えていたことなので、例えば前後のノートを見比べてみてもないように特に関連があるわけではない。音楽の話や勉強の話や、普段の生活のこと・政治のこと、とにかく雑多に並んでいる。中身はもちろん精査された物ではなく、自分のあやふやな知識の上に乗っかったテキトーな詭弁戯言なので、読み返してみて、結局何がいいたのかわからなかったりする。

 さて、この問題を解決する一番シンプルな方法は、おそらく上述の通り日頃から多くの文章を書くようにするということである。考えることは大切だが、あんまり頭でっかちになりすぎてもよろしくない(特に、僕が考えられるような程度のことは、書き出してナンボのものだと思う)。書いてみて、読んでみて、あれ、こんな言葉では自分の思考は伝わらないと思ったら書き直してみる。それを繰り返していくうちに、自然と一貫した、読みやすい文章が出来上がるのではないかと思う。

 もちろん、easy to readが文章の唯一の評価軸ではない。消費的な文章が僕は嫌いだから、むしろ目指すところは異なる。しかし、唯一の違いが理解のしやすさとなるような二つの文章を書く可能性がある時に、自然と理解しやすい方を書いているような能力は身につけておきたいのだ。

 

 たくさん書くという方法の他に、僕はもう一つ並行すべきだと思うことがある。それは、適切な語彙の習得である。言葉は可変的だが、多くのものが「本来的な」意味を持っている。僕はその本来性に則って使われた言葉こそ美しい文章の要なのではないかと思う。

 言葉の正当性とも言い換えられるかもしれない。その言葉がその文脈で使われることに異議を唱えられないように、自分が本当に伝えたいことや今まさに書いている文章の文脈とすり合わせながら単語を選んでいく。

 言葉の本来性の手がかりは、一重に過去の蓄積だ。言葉の密度がもっと高いころの本は、なお良い。選び抜かれた言葉は、それ自体が珠玉なのではなく、最も美しい場所にある平凡な言葉なのだ。

 

 最近は、じっくりものを書こうとする時間が減ってきている。

 現実が忙しいのは精神的には安寧だが、創作への欲求を発散するにはやや不適合かもしれない。

日記20190530

ピンチ・ピンチ・ピンチ。

人生のピンチ、その場のピンチ、終局を迎えるピンチ。 

 

私の大切なことは、美学的なこと、形而上にある、生をこれまで邁進させてきた何事か。

それを裏切らるなかれ。

 

この世は、私の得意な場所ではないが、この場所によって私が育てられたのも事実である。

 

偉人の経歴には、どいつもこいつも、こう書いてある。

「そんな時代は終わった、というのが凡人」

それは、文字ではなく、私とバイオグラフィーの間に浮かび上がる一つの解釈。

 

わたしは世が世なら敬虔な信徒となっていたであろう。

それがそうなったのは、私よりも偉大な存在の思し召しである、そう考えていただろう。

少し保守的で、変化を心のどこかで嫌っている。

 

 

しかし世の中とは、カネであった。

フラクタル

 

些末な日常の断片を取り出して写真を現像したり歌詞を書いたりすると、日常とノスタルジアを重ね合わせることに目がない現代人は、それらが自分たちがまさに今住まう世界であることに気がつかず、鑑賞の対象としての美を当てはめる。

写ルンですやチェキが一部の層で流行したり、ブームの兆しを感じた若いアーティストに「等身大」とか「リアルな」という冠をつけたりして、日常を異なる角度から再認識することが有り難がられている。

 

技術を悟らせない技術に美があるとすれば、アナログ的な日常の再認識は、技術の誇示である。日常という対象が同じなのに印象が異なるならば、その違いは認識の手段の違い、すなわち抽出手段の差だ。

 

そこにあったもの、そこにあるもの、私たちが新たな解釈の可能性を無意識的に閉ざしていたものーー美は、その再定義を体験する感覚にまで及んでいる。

 

質感には、敏感である。インターネット普及は、以前よりも格段に多くの視覚イメージを人々に提供し、我々の視覚的な経験は(深さは別にしても)かなり広くなっているだろうし、視覚イメージの経験は豊富なはずだ。聴覚についても同じことが言えるだろう。

 

現代的な美はなかなか普及しない。模倣のスタイルとして、アナログな雰囲気、ふるっぽさが前面に押し出されることはあっても、それは美の必然的な歴史的変遷の結果ではなく、人々にノスタルジックなものや日常的なものを再認識させる、明白な意図の下にある。

 

今目にする日常に潜んだ美は、その実体を持たない、表現の技術に対するものだ。表現の技術が持つ時代性に、我々はノスタルジーを感じているのだ。

 

ではあれば、ストーリーがひどく浅薄になること、下品であることは当然の帰結とも思える。作り手たちは、言外の意味や風刺、思想的背景を解釈されることを期待していない。彼らは自分の作り出す世界観の技術的側面に最も価値を置いているのだ。

 

 

さて、なぜトルストイの小説が長いのか。なぜ漫画は未だ文学研究の中心に据えられていないのか。

曖昧さと思われているものを全て、衒学的と決めつけてしまうのは、非常に愚かで、巨大な機会損失ということだ。

 

日記20190520

 

投稿は21日だが、中身は20日についてのことである。

 

引き続き、艱難辛苦。

夕方、アル・クーパー流しながらシャワーを浴びていたら、お湯を止めている間にブラインド・ベイビーのフィドルがあんまり素敵だったので、立ち直ってしまった。

 

というわけで、脱出。ふたたびシャバの空気を吸う。

 

 

読書記録をつけようかしら。

日記20190519

 

艱難辛苦。繰り返しは忘我的でないと、最も根源的な恐怖に辿り着いてしまう。

 

ひとつショッキングな夢を見ると、その後数日間、精神的に全く立ち行かなくなる。

私は恐怖を抱いているのか、不安を抱いているのか、はたまた、無限的なものに対する畏怖だろうか。

 

耐え忍ぶ期限がないと、苦は苦としてあり続ける。

 

世界の認識の仕方に、階層がある。

現象学的階層、物理的階層、わたしはこれに加えて、精神的階層が存在すると思う。

普段の、忘我的な時には、現象学的なものの見方のひとつによってわたしは物事をみている。

経験、技術、志向、あとは。

 

 

精神的階層にあるとき、艱難辛苦は増大する。この時ばかりは、なにもかも、現象学的な世界に過ぎない、というわけである。

 

 

すべきことをする、それは現象学的階層に戻るための手段である。

 

日記 20190513

 

最高気温22度、最低気温14度の予報。

少し湿った空気に、鳥の鳴く声が方々から聞こえてくる。空のほとんどは雲に覆われているが、ねずみ色ではなく、綿あめの白さ。

微かにくさいきれの時の匂いがするが、こんな穏やかな気象では僕の勘違いだろう。

 

朝の登校中に書く日記。

 

季節の植物の名前をもう少し知れば、さまざまな物が僕の景色の中で昇格して、より多様な世界を見せてくれそう。