はなだ文筆館

クルツよりがむしゃら。

忙しくない時

 

 昨年の暮れか今年の頭のどこかで、シャワーを浴びながらふと啓示が降りてきたーーというとオカルトな感じもするが、正確に言うならば無意識か前意識のどこかから、いや、やはり正確に言えるほどの理解はもっていないけれども、「ああ、そうか」という納得が一つ、いったことがある。もやもやしていたものが、もう少しはっきりとした輪郭を伴って現れた。そして言語化さえすることができた気がする。

 まだ20年と少しの人生の中で、ずっとわからなかったことの一つは、自分が一体何を求めているのかということである。生きている限りするであろう様々な行動が何に向かっているのか、あるいは何から生じているのか、原因と結果が同時に現れるようなことが、あるだろうと、なんとなく思っていた。みんな時間だけは特別な事象(?)のように扱っているけれども、それだってきっと分解できるはずである。

 で、何が言いたいかというと、「現実を超える試み」こそ、私のずっと抱いてきたものではないかということである。というよりも、私がやりたいこと、考えていること、知っていることをたくさん線で繋いでいくと、そこに共通して現れるのは、解放とか完全とか超越とか、そういうちょっとうさんくさい文字列だった。

 音楽や、文学は、例えば詩で架空の世界を想像したり、漫画だったらもっと直感的に違う世界を表現しているけれども、それはただの意味内容かもしれないし、現実にれっきと現れている一つの世界のありようかもしれない。または、今日の朝ごはんや部屋の掃除、誰かに頭をさげることだって現実を超越した意味、もしくは狭義の現実ーー物理現象ーーにおいて理解不能な意味を有しているかもしれない。

 あなたの呼吸が、数百億光年かなたで超新星爆発の最後の引き金になっているかもしれないーー。

 

 こう考えると、哲学や現代思想という名の下で示される学問の諸領域がいかに実用的か、実学に即しているかということを思い知らされる。

 いや、やはり私たち(少なくとも私)は、そういううさんくさいところから生まれ出でたとしてもよいのではないだろうか。

 

 

なつ

 

 

更新しなきゃ、と思って筆をとった。目的のためだけの行為として、余波は観測しない。

 

最近は幸福に浸かっていたので恨みつらみも家の垣根を越えてゆかず、平凡かつ平穏な日々のデモンストレーションである。

 

セミなんかは暑かったり涼しかったりで露骨にワークライフバランスを整えているようだけど、我々はそうは行かぬ(わたくし、まだ働いていませんが)。

夏なんです、あついです、と叫ぶのが微笑ましい思い出になる程度で何とか乗り切りたいものだ。

 

 

再来年はオリンピック。

 

人なら沢山いるのに、もっと集まるらしい。

 

どうにも、みんなで一緒に考えて頑張ろうとは、なかなか難しいものである。

 

 

さて、今日はお出かけ。

明日も、お出かけ。

 

 

 

 

嫌んなった、もうダメさ、だけど腐んのはやめとこう

日の目をみるかも、この俺だって

 

 

生活が満ち足りている瞬間、私の頭の中は空っぽだ。面白い事を煮詰めておいても、外からの刺激にやられて彼方へすっ飛んでいってしまって、気が付いた時にはそこに何があったのかさえ覚えていない。ただ、何かを失ったという感覚だけがぼんやりと残っていて、はたして物書くことを尊ぶ人間にとって幸せとは本当に幸せなのだろうかと、首を傾げてしまう。

貧弱な足場の作業が容易に事故へと繋がるように、基礎の固まっていない妄想ほど危険なことはない。未だ解明できずにいる人間の意思は気まぐれな上に、意思は意思自身を咎めたりすることはない。それは論理的にたぶん不可能であって、つまり否定的な形で想定を試みることはできるけれども、何が自分の思い通りなのかという問題は解決されていない。

私ができる精一杯は、私自身の移ろいやすさと不安定さを知ったつもりでい続けるということである。

 

 というわけで(?)、スウェーデンに来てから、むしろより多くの日本人と関わるようになった。留学前、日本にいた時は、進級時、キャンパスの移動に伴って交流のある友人が散り散りになってしまい、授業も一人で受けていることが多かった。うちの大学の生徒の気質のせいか、私のいた二外のクラスの個性かはわからないが、顔を合わせれば会話もするし飯も食べるのだが、そうでなければ大抵は個人プレイをしていた。とにかく、私はぼっちだった。

 最近は人と喋る回数が多くなった。もともと会話の能力はゼロに近かったけど、最近はなんとなくその場をやり過ごすことができるようになった気がするから、喋るのも多少マシになったのかもしれない。

くだらないことをくだらんと思って話すのは好きだが、面白くないことを面白いと思って話すのは苦痛だ。要するに社会に対して私は毒にも薬にもなっていないのである。

 

やがてやってくる災いといえば、これから立ち向かう社会そのものだ。どうして子供と大人でこんなに住む世界が違うようになってしまったのだろうか。ずっと昔から一人前であり、死ぬまで子供のままであればいいのになあと思う。

働くことは尊い大義ではないだろう、と考えたりする。

 

ハビトゥスを知ろうとしなければ、なんだかんだ我々がいるのは何かの枠の内側、未開社会の未開の内であり、鼻に付く言い方をすれば、広い世界を見てみなければわからないこともあるということだ。

確証はなくても、アプローチすること自体が大事なのだろうと思う。自己を満足させるのは成功という結果だけではないことは、だいたいの人間が了解することであると思うし、そういう振る舞いの蓄積が人間を形成していく。

 

留学が終わるまでもう2ヶ月もない。春のマルメはとても綺麗だった。

 

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福井良は22歳でピアノを始めたらしい。すこし希望が見えたので、私もピアノを弾けるように練習しようと思う。

 

youtu.be

 

生とか死とか、めんどい①ーー楽しい私の、楽しい人生

 

 休日の午前にスマートフォンが底抜けに明るいメロディーを突然に歌い出す。久しぶりに同期と居酒屋で夜中まで飲んでいたせいか、頭が少し痛い。じんわりと汗ばんだ身体からシーツを引き剥がして、ソファに投げ出されていたそれを手に取る。

 

「もしもし。起きてる?」

 

 電話口から聞こえてきたのは、男の低い声。年をとった桜の幹がぶるぶる震えているみたい。

 

「いまちょうど」

 

 腰に手をあて、胸を突き出すようにしてぐっと上半身に力をこめる。寝呆けていた身体中の筋肉が慌てて飛び起きた感じ。

 窓の外はさめざめと、泣くような雨。なんて言ったら、笑われるだろうか。

 なんとなく忍び足で窓に近寄ると、下でエンジンの唸る音がする。ゴミ収集車がいくらか腹を満たして満足げに私の住んで居るアパートを立ち去る。唾の代わりに排気ガスを散らかし、やがて建物の陰に隠れて見えなくなった。

 

「ねえおい、聞こえてたか」

 

 その声でふと自分が通話中だったことを思い出す。ごめんなに、と言ってもう一度通話口で男がぼそぼそと喋るのを聞く。

 

「わかった。じゃあ、来週ね」

 

 面倒な様子を隠そうともしない男の説明をもう一度聞いて、私は電話を切った。ここまできたら、才能だ。電話越しに機嫌が悪いのをあんなに上手く伝えられる人間はそういない。

 スマートフォンをベッドの上に転がし、今度は両手を天井に向かって思い切り突き出すように伸びをした。これをする度、自分がまだ成長しているような気がする。容易には測れないものは、全部砕いて実感へと還元する。

 これが私の正義である。

 

 

 休日には二種類ある。本当の休日と、偽物の休日。この鬱陶しい世の中では後者が蔓延しているようだけど、私には無縁だ。休むったら休むし、休めるのだ。このことに関しては、私は自分の幸運を感謝している。努力というより、偶然の産物だと思っているからである。

 かくして、私は休息への感謝を胸いっぱいに抱きしめながら活動を開始する。

 まずはコーヒー。欠かせない。ドリッパーに豆をセットして、水をいれ、スイッチをオンにする。こおこお、と奇妙な音を立て始めたら食パンを二つ、トースターにいれる。冷蔵庫から卵とウインナー、ブロッコリーとトマトを取り出す。ウインナーを焼いた油でそのまま目玉焼きを作る。黒胡椒は、たっぷりかけるが、塩はほんのひとつまみ。

 ルーティーンワークをする。休むことは何かをしないことではなく、考えないことだ。頭がぼうっとしたら、何もできなくなる。だから、寝ることは休むことであり、また、何も考えずに黒いフライパンの上でウインナーを転がしていることも、休むことなのだ。

 ちーん、とトーストの焼けた音がする。皆がうつむいている教室で一人だけ手をあげて何度も発言していた、あの子の感じである。

 私は思い出して、ラジオをつける。FMから、アフロ・ビートが流れ出す。目下私の興味はファンク・ジャズなのだが、なんとなく親戚であるから気分が上がった。

「お前には、マヨネーズ」

 ブロッコリーは、高校生2年生の春、好きになった。マヨネーズ以外つけたことがない。濃い緑のもじゃもじゃの頭に好きなだけかける。

 

 朝ごはんは、そうこうしているうちに終わってしまう。気がついたときには1日を始めるに足るエネルギーの補給が済んでいる。これはめでたいことである。物事は何事も始めが肝心であるし、始めること自体難しいことが世には山ほど、星の数ほどあるのだ。

 手早く洗い物を済ませたらーーもちろん、ルーティン・ワークであるーー手帳を開く。12時に新宿。これはもう、あまりに容易い。

 肌のケア、化粧、髪の手入れ、その他。あんまり美容に詳しくない男が知っているのはそれくらいの単語だ。中には女の私より妙に仔細に把握している人間もいるが、今やもう性別だのなんだのは、いちいち気にしていられない。

 人間らしく生きる。この方が、受け入れやすい命題だ。

 

 予定より30分早く、新宿へ着く。人ごみに対する感想はいつも変わらず、くたばれ、の一言。この世に嫌悪より強い感情が存在するものだろうか。しかし私自身が嫌悪されてはかなわない。喉まで出ても口にしないのは、ただそれだけの理由である。

 かくして、30分の時間を手に入れた。この時間は微妙に処理しづらい長さであるが、暇を持て余すのは、幸福の証拠である。群衆の中で誰か、騒ぎを起こしやしないだろうか。私は点字ブロックの端、駅の太い柱の前に立って行き交う人々を眺めていた。

 

 

 

マツコ・デラックス

 

テレビを見ることの少ない僕でも、彼女のことはかなり昔から知っていた。大柄な体、ここぞという時に切り込む面白さ、彼女を好きではないと言う人を現実で聞いたことは、まだない。

はっきりした物言いで、声は大きくてもうるさくはなく、もしそこに仮面があったとしても、僕のお気に入りの芸能人の一人である。

 

暗い人間が好きだ。そして、暗い人間が好きな人は、それなりにいると思う。

世の中の表舞台に現れる人々の大半はギラギラした目をしている。死後のことを考えたり、自分がその環境に生まれおちる確率が1/n%であることを認識したりすることに対して非常に懐疑的で、労働と衣食住、余暇のサイクルをいかに滞りなく循環させるかに執着している。あらゆる選択肢から斟酌しているように見せかけて、いかに閉鎖的な体系を構築するかだけを考えている。なるほど、ラブ&ピースを叫ぶことに理由はいらないが、いつだってそれを隠れ蓑にできるわけではない。

 

で、僕も、暗い人間の一人だと思う。まあ人間最初は腹の中、暗いところにいたのだから、「段々と色々なものが見えてくるようになる」のは当然かもしれない。それは生物的な、視覚的な意味ではなくもっと概念や思想的な営みという意味で。

 

 ここで冒頭の話に戻る。僕は、マツコ・デラックスを知っていた。この十年くらい、その名前を聞いたことがあった。初めてテレビで見かけたのは4、5年前かもしれない(それかもっと最近かも)が、そういう芸能人がいることは知っていた。

 これは僕のアンテナの感度の低さとでも言おうか、芸能人への興味の薄さ(もっと薄い人間は山ほどいるし、僕は自分自身がお笑いに関して無知だとは思っていないのだが)に起因するところなのだが、昨日、マツコ・デラックスが男性であり、オカマとして出演していたということを知った。

 結構な衝撃だった。画面に映る様子を見て「もしかしたらオカマかも」と可能性を考えたことすらなかった。完全に100%女性だと思い込んでいた。このことを実はtwitterで思わず呟きそうになったが、「マツコ・デラックスって男だったんだ」と言って良いのかわからなかったので、ここに書いている。

 女性だと思い込んでいた人物がオカマだったことへの衝撃は、「驚いた」で済むような内容ではなくて、もっと真剣に考えなければならない事項だとは思うし、僕がそのことについて驚いたという事実は僕がある価値観に基づいて物事を判断していることの証左なのだが、そのことについて今回は省略することにする。だけど、僕の驚きがジェンダーに悩む人々を中傷する意図はないし、あえて「結構な衝撃だった」と記したのだということを言っておきたい。このように書くこと自体、無教養で無知な人間の振る舞いなのかもしれないけど、現状はこれが精一杯である。

 

 さて、個別の事例なので一般化することは不可能かもしれないが、少なくとも僕の場合、マツコの芸風と社会的ステータスが彼女への評価に直接的に関係しているわけではなさそうだ。当然のことながら、ある人間の性格がジェンダーとセックスの齟齬に大きく影響されることは明白だし、それを抜きにしてその人物の思考や振る舞いが生まれることはなかっただろう。

 けれども僕はこの10年もの間、彼女の性別を取り違え続けながらも、そんな取り違いをしているとは露も思わずにテレビを見てきた。彼女が生物的にも女であって、しかし、人間性が現実のオカマとしてのマツコとほとんど同じだったとしたら、どのような差異が生まれるのだろうか。

 今までに、マツコの出ていた番組を一緒に見ていた友人やマツコについて話したことのある人間が「オカマ」としての彼女を昔から知った上で話していたとしたら、私が何の違和感も感じずにそれらの会話を完了できていたことは少し面白い事実のように感じる。尤も、相手側が何かを感じていたとしたら、また異なる視点から分析が必要になるかもしれないが、意思疎通の便宜上は対象となる人物の性そのものが直接に問題となることはないと思われる。

 

 それとも、その要因はもしかしたら、女性らしく振舞っていたからかであろうか。つまり、性別がどちらかが問題なのかではなくて、性別を同定することそのものが大事なのだとしたら、おかまとしてのマツコをイメージして語る人間と、マツコを女性と「誤認」しながらマツコをイメージして語る人間は、マツコに対して性別という観点からは疑問を抱いておらず、参照する性別は異なるものの行為としては同じことを行っているのだ。僕が彼女を認識する際に、「女性である」という判断は遠い過去にすでになされており、面白いことを話す大柄な人間という点に彼女のアイデンティティを見出していたからだろうか。

 

 

 

 

 

 

⭐︎ 考え足りないことリスト⭐︎

オカマであることそのもの

では、オカマであることそのものが抜擢の要因になっていたのだろうか。

 

境界をなくすのではなく、境界を越えることを容易にすること

 

タブーとしてのブラックペイント

それは歴史的背景を知っているか否かの単純な問題では、当然ありえないが、永遠に乗り越えることのできない課題となるか

これは例えば親指を下に向けたり、中指を立てる「ジェスチャー」とは異なる行為である(作為的な中傷でないと主張する妥当性が含まれうる)。ナチズムの仮装、或いは外人という問題もそうだった。

 

越境の可能性、私が比較文学に入り込もうとしていたのはそこに理由があるのかもしれない。

 

本年最初の雑録

 

 あけましておめでとう記事を書こうかな、と0.00001秒ほど考えようとしたが「いや書くまい」という結論がありきの思考だったので、今年もこの言葉からはじめよう。あけましておめでとうございます。

 

 授業が16日から始まる。スウェーデン文学の授業をついに受講することが可能となったのだが、友人曰く、

 

「あーそれねー。めっちゃ大変らしいよ。ははー」

 

とのこと。

 まあ野球の醍醐味の一つは延長11回の末、満塁逆転ホームランだったりすると思うし、追い込まれるのは我が人生の基本方針であるから、もう二日前には遠足の準備を済ませて体調管理のみに全力を注ぐような構え方でいこうと思う。どうせ私は単位を変換するかも怪しいし、卒業は少し延長する予定なのだし。

 

 帰ったらバイト変えたいなあ。まあ、それは帰ってから考えることにしよう。

 

 

脳みそ初め。↓

 

youtu.be

 

 

 

げひゃげひゃ笑うやつ。↓

 

youtu.be

 

この一週間、快晴が二回もあったのでかなりいい感じ。

 

ドイツからコペンハーゲンまでのどこか。

 

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旅その二

 

 

 はじめにことわっておくと、「旅その一」という記事はない。秋口にストックホルムへ1泊したのを「旅その一」として、水曜日から出かけるドイツへの旅が、第二弾というわけである。

 最近しょうもないことばかり書いていたので、たまには実生活のことを書いてみようというわけだ(これはもちろん、脳内うんちく思想大会を否定しがちな世の中に対するアイロニーもとい、ビバ・パンクロック)。

そして、いつものごとく見切り発車である。これから何を書こう。何をしよう。何になろう。

 

あ、扉が閉まった。

 

 

1. 旅程。

 

ひとまず、フランクフルトへ行って、友人宅に5泊。両親の家に里帰りだそうで、超短期ホームステイになりそうだ。クリスマスパーティに混ざりなよ、と言われたのでありがたく混ざろうと思う。

 

 ところで、留学生同士、「おたくの国ではどんなクリスマスをするのかい」なんて聞くことがままあるのだが、結局祝福に溢れた空気の中何か豪勢なものを食すという点ではどこも似たようなものらしい。

 非キリスト圏のうち、他の宗教が優勢な地域ではやはりクリスマスを積極的に祝うということはないようだが、別に彼らが街がクリスマスに向けて飾り付けをしているのを見て舌打ちをするようなことは、勿論ない。宗教も政治も、個人の単位に還元すると、時折些細な問題となることもある。

 

 フランクフルトへは、コペンハーゲンからバスで向かうことにした。安いから。電車や飛行機を使う手段もあったのだが、こういうときに値段ばかり見てしまうのは私が貧乏性だからか。もちろん値段だけで選んだわけではなくて、車窓をのんびり眺めたり、旅の道中に一眠りしたり、本を読みふけったり、そういう時間があっても良いだろうということである。長い時間シートに縮こまっているのはやや疲労が蓄積しそうで心配だが、疲れるのもまた、旅の良いところではないか。夜は景色もそんなに見えないわけだし寝てしまうだろうが、乗り物酔いさえしないことを祈るばかりだ。

 

 ドイツといえばビールだろうと世の中の大人は考えている。どこへ行くにも特産品を、ランドマークを試してみなければ気が済まないのだ。というわけで、ビールを飲んでこようと思う。

 

 

以下、追加更新(2017.12.30)

 

2 ドイツへ(1日目)

 

 最近ヨーロッパで流行りのFlixbusというバス会社を利用し、コペンハーゲンからフランクフルトまでの道のりを約15時間かけて進む。出発時間ぎりぎりにバス停に走って到着すると、灰色のずんぐりとした大型バスの脇に荷物を抱えた人々の列が並んでいた。しばらく待ってバスに乗り込むと、QRコード式のチケットとパスポートの提示を求められ、恰幅の良い乗務員の頷きとともに窓際の席を探し、乳酸のたまったふとももをさすりながら座った。

 

追加更新2(2018.1.10)

 

 そうこうしているうちに年が明けてしまったが、せっかくなので旅の記憶をもう少し書いておく。ほとんど殴り書きだから、わかりにくいかもしれない。

 

 コペンハーゲンからフランクフルトまでの道のりは想定以上に長かった。バスの中でwifiが使用できずやや退屈な時間が続いたが、高速道路にいる間はkindleクリスマス・キャロルを読んでいた。到着が21日、友人の家でクリスマスパーティをするというので、時節柄どうせ読むならこの小説だということである。

 ずっと雨が続いて、窓のそともなんだか調子の悪い空が広がっていた。ドイツに入ってからは、道路脇に所々雪の残っている場所もあり、あれだけ寒いスウェーデンでも雪は降らないのに天気はあんまり素直なやつではないなあと思う。

 途中一度隣に一回り上の中年の男性が座り(この行きのバスはなかなか混んでおり、車内はかなり窮屈な感じがした)、これから恋人だか妻だかに会いに行くとか言っていた。フランクフルトまで乗ると言ったら、町のことを少し教えてくれた。

 

 一眠り、ふた眠り、三度目の眠り、としているうちにフランクフルトに到着した。バス停もといバスターミナルは立体駐車場の陰に隠れてフランクフルト駅から一本裏に入ったところに位置していた。バスターミナルというとなんとなく都会の機能的で整然とした様子を思い浮かべてしまうが、人は無秩序に蠢いていたり、バスは入りきらず向かいのホテルの前に停車していたり、スタッフもなんだか忙しそうに動き回っていた。Flixbusを利用する前に、完全に行き届いていないサービスをどこまで受容できるか一度考えてからの方が良いかもしれない。僕は適当な人間なので何も感じなかったけど、ガイドツアーとかに慣れきっている人は、バスは常には時間を守れないという現実をよくよく理解してから予約しよう。

 それからこの時は雨で、どこにも屋根なんてないので周囲にそびえるビルの壁に張り付くように立っていると、風向きが良いときは濡れずに済む。

 

 フランクフルトの駅舎はかなり広かった。駅のホームがずらりと並び、停車する電車の数だけ駅舎も幅がある。上から見たらたぶん20前後のホームが、めざしみたいに横たわっていただろう。

 クレープを屋台で買って、Asianなんとか(名前は忘れた)というお店でフォーを食べた。ヨーロッパにいるとAsian food みたいな文言を目にするたびに脳内の望郷ゾーンがぞわぞわするんだけど、食べてからやっぱりAsiaというくくりの適当さを思い出す。

 

 で、いつまでたってもつながらないwifiにしびれを切らしてinformation centerに突撃した。結局スタバいけばwifiあるよと言われたので、フランクフルト散策を兼ねて駅前のスタバに向かった(駅内のスタバはどうもつながらない、人が多すぎるからか)。外へ出ると案の定暗く澱んだ雲が町を覆っていた。視線を上の方へ向けて歩くのは大抵新しい街に来たときだと思うので、普段からフランクフルトに住んでいる人にとっては曇りは曇り、いちいち気にしないだろう。

 

 カフェラテだかなんだかを頼んで、無事につながったwifiを拝みながらドイツガールに駅到着予定時刻を伝え、ちょっと見回して旅行客多いなあと思いながら、返す場所のわからないカップをそのまま机に残して店をでた。丸机をふたつくっつけた、たぶん韓国からの旅行客、一人たたずみスマホをいじる若い女性、僕をはさんで新たに入ってきた日本人(もしくは、日本語を話す)カップル。留学初日なら日本語を聞くたびに話しかけていたかもしれないけど、そんな気もいつの間にか起こらなくなっていた。

 フランクフルトからさらに電車で数十分。ユーロの感覚をまだ覚えておらずチケットが高いか安いかもよくわからない。スウェーデンよりなんとなく小綺麗に思われる電車に乗り、ゆられる。

 

 とうとうステイ先の地元の駅に到着する。以外とドイツは広々しているなあと思いながら、人の少ないホームに降り立つ。しばらく探しても現れないので、時間間違えたかな、などと思いつつ15分くらいすると友人あらわる。第一声はひさしぶり、だったかごめん遅れたーだったか忘れてしまった。

 駅の近くに止めた二人乗りの軽自動車に乗って(エアコンの脇に箱根神社のお守りを発見)、家へ向かう。